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「泉小太郎伝説について調べまくる」の資料ページです。
田沢神明宮 縁起は
豊科町誌 別編(民族II) 平成11年3月31日発行 に全文があります。
この縁起が作られたのは 明和八年6月21日とありますので
1771年 江戸時代中期に編纂されています。
豊科町誌の解説にあるように、
信府統記の48年後に編纂されているため
その影響をうけています。
あるいは信府統記自体がこの地域に残る口伝の収集の形を
とっているため この縁起の伝承の一部も信府統記編纂期に
参照された可能性もあります。
また、編纂が江戸時代であるため、そのころの宗教、習俗的な
流行に則ったかたちでの編纂であるといえます。
「泉小太郎」の関係する内容では独自な記載もあり
この地に独自に伝わった縁起や口伝のようなものが
独自にあったと推察されます
この縁起の中には、天文年間 1532年〜1555年に
武田軍の進軍によって
壊滅するまでは この地は繁栄していたとあるため
この縁起は再興を目指して作られたものであると推察されます。
それでは泉小太郎伝説に関わる部分を意訳にて掲載いたします。
間違い等は豊科町誌をご参照いただきご指摘いただければ幸いです。
「信濃国筑摩郡田澤村神社の縁記」
(1 神代の段
イザナギノミコトとイザナミノミコトが話し合いをしていうことには
「私たちはすでに大八州(おおやしま)の国や山川草木を産んだので
それらを統治するものを産もう」
そこでともに神を産んだがその神はオオヒルメノムチという
この子は光麗しくて国のうちを照らしたので二神は喜んで言った
子供は多くいるがこのように素晴らしい子はいない
永くこの国に留まらせず早く天に送り天上のことを治めさせよう
この時は天地がまだ遠く離れていなかったので天の柱により
天上に送り上げた
天上に留まったが地神と数えるのははじめ天下の主として生んだことによる
天照皇大神が治めること天25満歳 我が国最初の天君である
昔スサノオノミコトが天照に対して大変悪いことをいろいろして侮ったため
天照は怒って天の岩窟に入り磐戸を閉めてこもった
すると国中暗闇となり昼夜がなくなってしまった
神々は愁いて迷った
天御中主 アメノミナカヌシの子のタカミムスビが詔して
八十万の神たちを天の八端河原に集めて計画を立てた
岩窟戸の前に舞台をつくり猿女の祖である鈿女の命 ウズメノミコトが
天の香山の竹をとり穴をあけて気を通じて今の世でいう笛と呼ばれるものをつくった
また 天の香弓を並べて鳴らすのは今の世で言う和琴である
安楽の声を備え和気をうつし八つの音をあらわして
猿女は踊り歌い舞い清浄の音を奏で神楽の調べを奉じた時に天照の怒りを解いた
この時天照大神はこれを聞いて「私が岩戸に閉じこもっているので
この国は暗闇に閉ざされているはずなのになぜ鈿女がこんなに楽しそうなのだ」と言いながら
岩戸を細く開けて覗き見た
この時 手力雄神 タチカラオノカミ は天照の手をとり引き出した
この時 中臣の神 忌部の神はしめ縄を引き渡してもう入れないようにした
手力雄神 タチカラオノカミは扉を引き開けて新殿に遷してまつった
則ちアメノコヤノミコト 日の綱をその宮に廻したが今のしりくめ縄がこれである
手力雄神が岩戸を持ち信濃の国に隠したのが戸隠明神であり今も繁栄している
倭姫 ヤマトヒメ の時代
人皇十一代 垂仁天皇の娘 御杖代(みつえしろ 注釈 代理)として
天照の御正体を祀る宮所を探していたところ猿田彦 サルタヒコの神の子孫宇治土公の祖である
大田の命 オオタノミコトに出会い 「あなたの国の名は何ですか」と問うと
サコクシロウジの国と答えて 田を寄進された
倭姫が「吉宮があるか」と問うと
「サコクシロウジの五十鈴川の川上はこの国の中でも特に優れて霊験高いところです」
その中の翁が
「三十八満歳の間でもまだ見たことのないような霊物があって光り輝くこと日や月のようです
これは定まった主が現れたときに奉じようとしている」と導いた
見ると 昔 大神が誓って豊芦原の瑞穂の国の中に伊勢という国に美宮所がありと見定めて
天上から投げおろした天の逆太刀 金の鈴などだった
そのため喜びあふれて 神代より伝わっている御鏡 御剣を伊勢の五十鈴川の川上に遷し鎮めた
これが今の内宮であり 神明宮という
(2 田澤村神明宮 由緒
この地の田沢村の神明宮は最初は
伊勢神宮内宮から
人皇十二代 景行天皇十二年九月十六日に
日光和泉の小太郎殿が勧請し造立した
言い伝えによればその昔信濃国の有明の里は湖でした
諏訪大明神 建御名刀の命(タケミナカタノミコト)が陰化した犀龍が湖に住み
戸隠明神の手力雄命(タヂカラオノミコト)が陽化して白竜王になって和合した子
日光和泉小太郎殿という
八峯山に生まれ景行天皇十二年三月二十五日 小太郎はこの下田沢の奥入沢に光臨した
ここを田沢の犀乗沢という
昔は戸隠の領地だったことより 有明の里の北を上(かみ)として南を下(しも)といった
これはいまでも仁科(現在の大町 注釈)の北の方ではこの風習が残っている。
その後に国司の館が南にあるようになったので、南を上(かみ)として北を下(しも)と
いうようになった。
犀乗沢は昔から田澤村の中にあったが乱世の時にこの村人が減ってしまい
近隣から移り住んだ。
慶安の検地によって今は、平瀬村となり下田というようになったが峯は田沢村の地域となる
その時 犀龍があわられて「小太郎 私に乗って 三清地(さんせいち)を裂き(水内郡の滝なり)
水道を通し人里とし 白龍王へ申し上げ神明(天照大神 注釈)に献上しなさい」と言った
小太郎はその言葉に従って湖に乗り出した ここは田澤村の南原にある 蝦蟇が淵の辺りで
鱗(いろくず 注釈 うろこのある動物)が怒って毒気を吐きかけ
逆流が起こったため進めず しばらくの間退いた (この場所を尾入沢といい田澤村の内なり)
伊勢の方をはるかに拝して祈念したところその誠心が通じて神明(天照大神 注釈)の感応により
神光が湖上を照らし神風が陰邪を吹き払い 波が鎮まった
小太郎は犀の広矛を突いて 鱗魔を討ち 三清滝を裂き水道を開いた
その乗り留まったところを人々が乗ったり乗ったりと褒めたのでその場所を乗ったりの里と名付けた
田澤村の南の境より犀川と言い越後の国の大海まで 一つの流れで通じている
有明の里は干潟となり開かれたので
(今は松本平という 東西は山で限られ南は塩尻の九里幅から北は仁科までの村の名である
有明山は秀でて昔から名付けられていた)
四月二十日 戸隠山へ参詣しこと上げしたところ 岩石の面に大光明が光り輝いた
(戸隠山の裏山にこの岩石があり この時より岩に両部の大日尊が現れ大滝を
隔て高く険しいばしょに数丈の岩石屏風のように立ち 人歩人力の及ばなしところではない
今に至るまで日の神の現れた場所として徳を持ち清浄正明なものは拝し
悪逆邪見のものは拝することが出来ない 恐るべしおそるべし)
その時白竜王が現れて
「すばらしい 小太郎 お前は神明の御心にかなってよって今から
岩頭に 天照大神の御霊光を拝せよ
お前の遠祖であるオオナムチノミコト コトシロヌシノの陰徳に等しい
であるから日光の称号を与え、和泉の国の号を与えられた」
オオナムチは下野の国(注釈 現在の栃木周辺)の日光山に奉られている二荒山の神社は
上古から下野の国の一宮であった 今は東照大神神宮 日光山に祀られている
オオナムチの御神徳が増して コトシロヌシは和泉の国石津大社に祀られていて
信濃国諏訪大明神にも祀られている
川会の地を賜った小太郎殿は信心をもって礼拝して喜んだ
また白龍王の命令をうけて犀川の川上(田沢村である)へ来て
精霊の地を選んでこの地に社頭を建て神明を勧請し
降臨の徳を仰いで有明の里を開くことの成就を崇敬した
そして田を拓き沢を掛けたことを喜んで「田澤」と名づけた
有明の里の田地開発の最初である
これよりここは人里となり数万の田畑が出来て五穀豊穣で民は栄えた
道祖神(猿田彦大神であり犀の神ともいう)より伝えられた
小太郎が持っていた「犀の矛」を御神体として
神明(注釈 天照大神)の前面に「犀の神」を勧請した
(この場所を犀の神原といい 一の鳥居のそばの岸上である)
この神は導きの神で神明(注釈 天照大神)の宮所を守るものである
船の守りのときは船魂の神であるため天の岩船を造って
神明が御遊覧するためにここに置いたところのちに
自然そのままになって長く大きな石となって船石という
天文の頃 悪徒の用により石工が矢穴を掘ったが破ることが出来ず
即時に眼がくらみ人の家に入り死んだという
湖水が干上がってから毎年(最初は3月25日の夜であったが中頃から
神託があって7月16日となった)田沢村の東山の頂上と併せて犀川のきわに
燈を灯して龍神を祀れと小太郎殿は命令したので有明の里人が集まって
百八灯を1組として数万の松明を灯して祭りをおこなった
しかし行事が出来なくなったため文禄の頃から水難が多くなり
その上他の村との会合もなくなり今は田澤村のみで行っている
当村の上の山に小太郎殿が池を掘って
神明(注釈 天照)が御遊覧する池とし殺生禁制し不浄の事を戒めた
のちに用水用の溜池となった
昔から大旱魃の時にも澤田 町田 久保田は旱魃の害は一度もなかった
これは神明の御恵みである
雨乞いも犀川にてみそぎをし諸人こぞって信心をもって
この池のほとりを夜 松明で照らし
神明の社にのぼりを立て 神主が三日三夜祈ると雨が降った
しかし去る寅の夏 神の戒めを破り この池で殺生をしたため
その二年間にわたって澤田 町田 久保田は旱魃により
稲は残らず枯れた 前代未聞のことである
神明の魚をとったことの咎めである おそるべしおそるべし
日光和泉小太郎殿は川会の地に屋形を建て栄えた
その後ここに社を建てて川会大明神とし崇め祭った
川会神社と神名帳にのっている有明の里の開基の地主神である
人皇五十一代 平城天皇の時代に信濃國安曇郡中房山に鬼賊が住んだ
✴︎平城天皇(へいぜいてんのう、774年- 824年 在位:806年- 809年)
その頭は魏石鬼 八面大王と名乗り数千の眷属を率いて国中で人に害を及ぼした
それによって勅宣をうけ 退治するために 延暦24年(805年)に
征夷大将軍の坂上田村麻呂(758年-811年)が出陣した
これを聞いて鬼賊の一味は残らず根城にしている中房山に立て篭もった
将軍は牛伏山にて歳を越し、翌春 積雪もなかったため問題もなく進軍した
この地では積雪がないことは珍しいことであったため吉相とし出馬した
時は大同元年正月八日(806年) 当地田沢村を通過しようとしたところ
不思議なことに天から矢が一筋垂れ降りた
この時からこの場所を名付けて「矢だれ」とした また「矢崎」ともいう
将軍がそれを手に取ってみると神明の矢 天の真鹿児矢(まかごや)であった
そのため信仰を肝に銘じて 当地の神主小林氏を招いて尋ねて
この地の神明からこの矢を授かったので参詣を願いでた
そして当社の来歴を詳しく聞いたのち一の鳥居の前まで来たところ
大口沢の流れから金色の光がさしたので 不思議に思いそのあたりを
探したところ岸の上に草庵があった
船石のある場所でのちに円満寺を建立した場所である
草庵には麻の衣を着て草に座った白髪の老僧がいた
将軍が「何の修行をしてこの場所に住んでいるのか」と尋ねたところ
「私より先に白衣を着た老翁観音という名の観音が住んでいた
その老翁は私に 自分に代わって1人の大将を待って
神明の社を再興してこの地に神宮院を建立してほしいと頼むのだ
私は最初
私は最初戸隠山より出て高梨の池に住み、そこからここにきた
神明に代わって大日如来として現れ、又白龍王という 千変万化して諸人を
救うことを請願した 私の本体は正観音である
そして空を指差し飛び去った
それを将軍の来臨にあったことおろそかに思うことのないよう
私はこれより仏崎の岩穴にこもって軍を擁護しその後は栗尾山の池にはいる
今その池のところを池の平という栗尾山満願寺中興の時にこの池から千手
観音の仏像が出て本尊となった
有明の里の繁昌安全を守護し 京都の清水のあたりにて再会しよう
この僧こそ日光和泉小太郎の化身であるという異香を漂わせ
光明に輝き千手観音となった
西の天に飛び去った
将軍はこれを信じて神明の社に参詣した
神主らは再び拝み敬いて祝詞をあげ祈念をし
立願した神力というか仏力というか不思議な力をもって
歓喜微笑して諸軍勇進し当社から箭原(やはら)の庄に着いた
そして昔より縁起の良い城として川会に兵を整えた
正月十八日の早朝に中房山へ向かった
鬼賊はその声で山河を動かし天に轟き地に満ちて数千騎に身を変え
黒雲より鉄火を降らし大木大岩を投下した
今もその石はその近辺に多数転がっている
将軍の軍勢は行くてを阻まれしばらくそこに留まっていたところ
雲の中より千手観音が白虎に乗り光を放ち
空を飛び白旗を手に持ち力を貸せば軍勢は勇み立ち我先にと
矢をあらんかぎり放ち攻めた
鬼賊らは残り少なくなるほど討たれたが
八面大王は鉄石の体であったため数千の矢でも傷付かず
怒り火を吐き将軍を捕らえようとした
将軍は少しも騒ぐことなく授かった神明の矢を放つと
八面大王の鉄石の首を射抜き落とした
首は狂乱して空に飛び塔ノ原の庄まで飛んでいったが
七日の間髭を逆立てて眼を見開き塞ぐことはなかった
そこに塚をつくった
大王塚といい塔ノ原村にある
そのあと潮沢村(うしおさわむら)の山奥に住む名を九鬼(くき)というものを退治した
潮村の矢元というところに田村将軍が造立した観音堂があったが今は竹鼻にある
九鬼は八面大王の一の臣下である
退治を終え将軍は田村神明の社へ参拝し軍勢を解き
めでたく帰路の途についた
田村麻呂将軍が田沢村にて天より授かった矢の威徳により
悪魔を鎮めこの地が静謐に治まり願いが円満になったことは
神明仏陀の力だと感じ
当地の神明の社が大破していたものをこの時再興造営して
併せて神宮院を建立し白龍山円満寺とした
観音の夢によって薬師如来を本尊とし
霊験によって信仰する老若男女の病難を退けた
その上神領寺領が寄贈された云々
大同元年(806年)六月二十一日である
それ以前 祭礼は九月十六日に行っていたが
これより六月二十一日に行われることとなった
天文のころ乱世にて悪徒のために円満寺は消失した
その後再興することなく廃絶してしまった
宝蔵も焼亡してしまい古伝の書や神宝等も紛失してしまった
その頃は当所は困窮しており郷の民も神職の者も
連絡が取れず修補することも出来ず社頭が減少した云々
村堺の南から下田沢北 野田東から高萩西にかけて恵光院の地所は
隣村に奪われた しかし 野田村は昔からの習わしを失わず
神明を産土社として祭礼していた
円満寺を焼失した際も昔の大門跡に仮に草堂を立て
出現した薬師如来を安置し本尊としたため今は薬師堂という
古来よりの例にならって神明の御祭礼の際
この堂より立ち回って社頭へ渡すものである
昔は犀川の流路は熊倉村と下田沢の間を通り
田澤村徳次郎の郷の西の境である寺所に入って
郡の境としていたが
文禄年間(1592年から1596年)満水となり郡の境から田沢村に
流れ込み洪水となりその地を一変させた
田澤村は円満豊譲の土地であったが
これによって土地が流され さらに隣郷に
奪われるなどして土地も減少して
神領寺領も絶えた
将軍田村麻呂は当社の託宣を受け
大同元年(806年)より三年の間
有明の里の年貢を免除した
人々は感謝して将軍が置いていった履き物を納める
塚を築いた
冥利塚といい田澤村にある
祠を建て恩を感じ里の民は祭祀を執り行い
繁昌を祈った
文禄(1592年から1596年)の洪水で
冥利塚は川の中に没し祠もなくなり祭りも無くなった
中世に信濃國国司 修理太夫惟正の郷 深瀬の地に
その後松本といい城が立つ
館を建てた折神社仏閣を見て回ったところ
信濃の国に神明の霊地が七カ所有り
信濃七神明とされた
○刈谷沢 ○会田宮本 ○麻績 ○川手潮村
○仁科宮本 ○更科小市 ○犀川上田沢
そのうち当村神明の社は古代より神威がことに著しい霊地であり
七神明の中でも随一と感じるのは諸人の知るところである
昔は社殿造営も賑わって多くの人がこぞって崇敬し奉っていた
郷の民は会合して祭祀も厳重に
信心深く日夜なく怠りなく執り行われた
神を鎮め奉って霊気も多かったが
中世にはいると人は離散し村々に社を建て
産土社としたことから今は当社も一村のみで運営されており
野山の入りあった23、4の地区が属しているのみである
まさしく当社は伊勢の内宮を移して有明の里の開所以来の古跡が今に至っている
歩みを運び山内に入り一の鳥居に入ると遠く人家を離れて山が映え流水清らかである
千古の樹木も茂り、林となっている
犀の神原に船石があり小田を打ち績んだ
田沢川の流れは伊勢の五十鈴川のように御手洗にもつかっている
橋は天の浮橋とも言われ伊勢の宇治橋にも似ている
多くの鳥がさえずり多くの獣があそび祥雲もながくたなびき
気にあふれ沢にはいい香りが満ちている
風は塵を払い水も垢を洗い落として常に清浄で
天長地久万世不朽の霊地である
奥には柏峠、透ケ原、山神の森 そのほか末社も数多く村々のうちにある
神明の御除地(免税地)を賜って
天下泰平国家長久五穀豊穣産子男女繁昌
村中安全諸民豊楽自他信心願主
家運長栄諸願成就の祈念を
怠慢もなく務めるものである
神は人の敬いによって威を増し
人は神の徳によって運を添える
恒例の祭りを絶やさず
祭祀を怠ることのないように
神主も誠心誠意取り組み
また社殿が少し壊れた時は修理をし
大破した際には造営すること
これは万代の教訓であるので
ここに略書する
誰でも神明の恵を得ないものはない
それをわきまえず崇敬しないものは
神の御加護もなく罪人となるであろう
名利を貪らず慢心なく驕りをやめて
謙り清明正直を根とし
六根清浄にて神明と通じれば
諸願成就する信心を怠らず敬え
以上は小林源太夫藤原吉嗣の伝授していたものを
現したものである
古来からの縁起が経年劣化によって
紙が破れ文字もわからなくなり後世になって
当社の由来が忘却されてしまえば
このありがたい神徳も埋もれてしまうことをなげき
私意をなくして旧記を考えて謹んで書とした
至らないところはあるが知者を待ってこの欠けている部分を
埋めていただきたい
先祖数代より当社の神主を任じられて相続したことを
子孫に伝え
神恩を忘れず神道の修行を奉じて務めるものである
神祗管領上従二位卜部朝臣兼雄郷之門人
信濃国筑摩郡田澤村神明之神主
小林駿河守
藤原吉政(花押)
明和八(辛卯)(1771年)6月21日
原文 豊科町誌 別編(民俗II) 平成11年3月31日発行版より