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2022年02月23日
仁科濫觴記
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安曇の古代より
(ウィキペディアより)
仁科濫觴記(にしならんしょうき)は、崇神天皇の時代から弘仁までのおよそ1000年間における、古代の仁科氏の歴史。信濃国(長野県)安曇平の歴史や、地名の起こりに加え、部分的に中央政権の動向にも触れられている。著者は不明で、制作年代も平安時代初期に始まり江戸時代の完成になると考えられている。当地方で最も古いと考えられ、かつ信憑性の高い記録。信濃国風土記の一端を伝えるものであった可能性も、考えられている。部分的な情報は、仁科氏に代々伝わっていた奈良時代を遡る「御所ノ旧記」なる記録(未発表)が参照されている。「天皇」という記述から後代の加筆が確実であるものの、「成務天皇五年(135年)二月」といった古代の細かな時間範囲の事件にも触れられている。また、大海人皇子(後の天武天皇)に比定されうる「皇極ノ太子」による、白雉4年(653年)以降のこの地方への政治関与の記録など、中央政権の動向の詳細に言及している点もある。
記録の最終の時代である白雉4年から弘仁8年(817年)の記述は、非常に詳細である。しかし、白雉以前の記録はあいまいな点も多く、また成務天皇期よりも後のおよそ500年間の記録は欠けている。
やはりこの地域の記録としても知られる信府統記が、おとぎ話的な要素を多く含み、事件の背景年代もあいまいであるのに対し、あくまでも人間の歴史として時間軸に置いて記述しようとしている態度が一貫しており、また不確実な情報を極力少なくしようとしている点が、記録の信憑性を高めている、と考えられている。創作童話「龍の子太郎」のモデルとなった民話の一つ泉小太郎伝説や、八面大王伝説など、松本・安曇平に伝わる伝承の元となった「史実」に触れることができる。また、大町・安曇・穂高・千曲川・仁科三湖・有明山・高瀬川 (長野県)・梓川・姫川・仁科神明宮・穂高神社・若一王子神社などの由来(名前の変遷や成立年が記されているものもある)についても記されている。
記録されている地域の範囲は、仁科(現在の大町市から安曇野市にかけて)の記録が中心となっているが、南は松本市島立から同市梓川地区、北は北安曇郡白馬村、同小谷村を超え、信越国境に及んでいる。また、長岡京や岡本宮にも触れられている。
(Wikipediaより)
仁科濫觴記に関しての現代語訳はこちらのブログがよくまとめられていますのでご参照ください
(球わかば さん よく晴れた雨の日に。現代語訳『仁科濫觴記』(全文))
仁科濫觴記については「安曇の古代」仁科宗一郎著 1972年において詳細に調査されています。
詳しくは 泉小太郎参考文献 一覧の中の安曇の古代を参照ください
仁科濫觴記を偽書と主張されるかたはいらっしゃるのですが
なぜ偽書としているかの論拠を示している文章が私は発見できませんでした。
参考文献等教えていただければ確認したいので情報お待ちしております。
私としては
仁科濫觴記を偽書としたはじまりは
仁科濫觴記に一部でも真実が含まれているとなると
自説と合わなくなる方
とくに「安曇族および仁科氏の北入説論者」が
特段の論拠もなしに一蹴したことが「偽書説」の始まりではないかと
思っています
では逆に仁科濫觴記に真実がふくまれているか否かを
検証することができるか?
についてですが
まずは丁寧に検証している安曇の古代を読んでいただくことがお勧めです。
さらに、決定的に検証する方法があります。
「安曇の古代」において仁科宗一郎氏は
仁科濫觴記中の記載のみを頼りに偶然と細かなフィールドワークで
松川村山中で、だれにも知られていない(山の所有者すらもしらない)
仁品王の墳墓を見つけています。
この発掘をし、副葬品などが発見されれば
確実な検証となります。
だれかこの発掘に挑戦してほしいのです。
泉小太郎参考文献 一覧はこちら
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(ウィキペディアより)
仁科濫觴記(にしならんしょうき)は、崇神天皇の時代から弘仁までのおよそ1000年間における、古代の仁科氏の歴史。信濃国(長野県)安曇平の歴史や、地名の起こりに加え、部分的に中央政権の動向にも触れられている。著者は不明で、制作年代も平安時代初期に始まり江戸時代の完成になると考えられている。当地方で最も古いと考えられ、かつ信憑性の高い記録。信濃国風土記の一端を伝えるものであった可能性も、考えられている。部分的な情報は、仁科氏に代々伝わっていた奈良時代を遡る「御所ノ旧記」なる記録(未発表)が参照されている。「天皇」という記述から後代の加筆が確実であるものの、「成務天皇五年(135年)二月」といった古代の細かな時間範囲の事件にも触れられている。また、大海人皇子(後の天武天皇)に比定されうる「皇極ノ太子」による、白雉4年(653年)以降のこの地方への政治関与の記録など、中央政権の動向の詳細に言及している点もある。
記録の最終の時代である白雉4年から弘仁8年(817年)の記述は、非常に詳細である。しかし、白雉以前の記録はあいまいな点も多く、また成務天皇期よりも後のおよそ500年間の記録は欠けている。
やはりこの地域の記録としても知られる信府統記が、おとぎ話的な要素を多く含み、事件の背景年代もあいまいであるのに対し、あくまでも人間の歴史として時間軸に置いて記述しようとしている態度が一貫しており、また不確実な情報を極力少なくしようとしている点が、記録の信憑性を高めている、と考えられている。創作童話「龍の子太郎」のモデルとなった民話の一つ泉小太郎伝説や、八面大王伝説など、松本・安曇平に伝わる伝承の元となった「史実」に触れることができる。また、大町・安曇・穂高・千曲川・仁科三湖・有明山・高瀬川 (長野県)・梓川・姫川・仁科神明宮・穂高神社・若一王子神社などの由来(名前の変遷や成立年が記されているものもある)についても記されている。
記録されている地域の範囲は、仁科(現在の大町市から安曇野市にかけて)の記録が中心となっているが、南は松本市島立から同市梓川地区、北は北安曇郡白馬村、同小谷村を超え、信越国境に及んでいる。また、長岡京や岡本宮にも触れられている。
(Wikipediaより)
仁科濫觴記に関しての現代語訳はこちらのブログがよくまとめられていますのでご参照ください
(球わかば さん よく晴れた雨の日に。現代語訳『仁科濫觴記』(全文))
仁科濫觴記については「安曇の古代」仁科宗一郎著 1972年において詳細に調査されています。
詳しくは 泉小太郎参考文献 一覧の中の安曇の古代を参照ください
仁科濫觴記を偽書と主張されるかたはいらっしゃるのですが
なぜ偽書としているかの論拠を示している文章が私は発見できませんでした。
参考文献等教えていただければ確認したいので情報お待ちしております。
私としては
仁科濫觴記を偽書としたはじまりは
仁科濫觴記に一部でも真実が含まれているとなると
自説と合わなくなる方
とくに「安曇族および仁科氏の北入説論者」が
特段の論拠もなしに一蹴したことが「偽書説」の始まりではないかと
思っています
では逆に仁科濫觴記に真実がふくまれているか否かを
検証することができるか?
についてですが
まずは丁寧に検証している安曇の古代を読んでいただくことがお勧めです。
さらに、決定的に検証する方法があります。
「安曇の古代」において仁科宗一郎氏は
仁科濫觴記中の記載のみを頼りに偶然と細かなフィールドワークで
松川村山中で、だれにも知られていない(山の所有者すらもしらない)
仁品王の墳墓を見つけています。
この発掘をし、副葬品などが発見されれば
確実な検証となります。
だれかこの発掘に挑戦してほしいのです。
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2022年02月23日
信府統記 現代語意訳 泉小太郎関係箇所
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『信府統記』(しんぷとうき)は、信濃国(長野県)松本藩主の命によって編纂され、1724年(享保9年)12月に完成した、同藩内および信濃国内の地理・歴史を記述した書籍(地誌)である。

以下は泉小太郎に関係のある箇所の私の意訳です。
ご指摘があれば修正いたします。
文章の乱雑さは編者が述べている通り
各地にある口伝と思われる内容のものをまとめたためかと
思われます。
各所にあるものをまとめているため
時代背景等もわからない状況となっています。
信府統記 第十七
旧俗伝
この国において古い時代より近年にいたる事跡を見聞すると、
郡や諸城の記録等に記載はあるものの
古代の沿革については由緒がわかっておらず確かな記載は難しい
ただ、筑摩 安曇の両郡には旧俗の伝わっている記録が少なくない
その記録は詳細なものではないが、古代を考え、今を知ることができる
きっかけとなるなら 放置したくない よって
別巻として一巻にまとめたのが次の内容である。
古代を感じていただきたい
安曇筑摩両郡旧俗伝
第一章(古代)
古い時代、まだ郡の名も決まっておらず、村里も開かれていない時
人々は山の中にのみ住んでいた。その頃はここを有明の里と言っていた
有明山という大きな山の麓であったためです。
有明山は今松川と呼ばれている
有明山の名を戸放カ嶽ともいう
それは昔 日の神が岩戸にこもったとき
天下が暗黒となったが
手力雄命が岩戸を取り投げた時 この地に岩戸が落ちた
これによって天下は明るくなったため
この山を有明山とも、戸放カ嶽とも、鳥放カ嶽ともいう
鳥放カ嶽というのは この山に鶏ににた鳥がいて時を知らせるためだとも。
一説にはこの山にかかる月はいつも明るく照っていることから有明山と
いう説もあった
人皇十二代景行天皇までは
この辺の平地は山々からながえれ落ちるすべての沢の水を湛えて湖であった
ここに犀竜がいた
またここより東の高梨というところの池に白竜王というものがいた。
犀竜と白竜王は交じり合って一人の子を産んだ
八峯瀬山にて誕生し、日光泉小太郎といった。
放光寺
のあたりで成長した
母である犀竜は自らの姿を恥じて湖に隠れた
小太郎は母を訪ねて、熊倉下田の奥 尾入沢というところで会えた
犀竜はこういった
「私は諏訪大明神 武南方富ノ命が変身したものです
子孫繁栄をさせるために現れました 小太郎、私に乗りなさい
この湖を突き破り、水を落として平地とし、人里としなさい」
小太郎は言われた通り
尾入沢で犀竜に乗った
そのため尾入沢は今では犀乗沢といわれている
三清地というところの大岩を突き破り
水内の橋の下の岩山をも破って
千曲川の川筋を越後の国の海まで乗り込ませた
これによりこの場所を乗ったりという
このため犀乗沢から千曲川に合流するところまでを犀川という
その後犀竜は白竜王を訪ねて
坂本(木)の横吹という岩穴に入る
小太郎有明の里に帰って、今の池田組十日市場の川会というところに住んで子孫繁栄した
年を経て白竜王と犀竜ともに川会にきて対面した
白竜王は
「私は日輪の精霊 すなわち大日如来の化身です」といって
犀竜とともに今の松川の一本木村西の山にある仏崎というところの岩穴に
入って隠れた
これから年月が経ったあと
小太郎は「私は八峯瀬権現の再誕である この里の繁栄を守護する」といって
仏崎の岩山に隠れた
後に 川会大明神の神社を建てたのは
この神を祀るためだという
湖の水を落として平地となったあと
水田を拓き人々が住み次第に村ができた
湖があったころは山から山へ移動するために船をつかっていた
そのため今 山家の地区に船付という地名があり、船を繋いだ石がある
また一説に
この信濃十二郡の中の筑摩安曇の両郡は満ち満ちとした海原だった
中山の崎から碧海水(うしお)に入ったため塩崎という
湖は伊奈郡へ流れる、塩尻というのもここから始まった
深瀬というのはそのなかに川筋が深い瀬がある所とか
山家というのは人々が山に住んでいたためであるため
古くからある名前である
この場所に船をつけたため船着といい
船を繋いだ石が今もある
釣りを営みとしていたが神々が憐んでいた
その中でも鉢伏(今は八峯瀬山という)の山の権現が
人として現れ 近くの丸山に住んだ
そのところに不思議な泉が湧き出でて
味が酒のようで人の飢餓を救い 疲れをとった
まさに不老不死の泉ともいえるが 人々は大変喜んだ
この権現の子供を泉の小次郎といい
生まれながらに常人とかけはなれ
岩壁を走り 水中では自在であった
この地を平地とするために海中に入り調べ
一つの山を突き壊すと水が落ちて丘となるとわかった
これは人力のおよばない神々に祈らなければならないことだった
大雨が降って満水となるとこの山を越えるほど水があふれた時
犀が1匹あらわれた
小次郎は犀に乗って、この山を乗り破った
異城のいにしえの巨霊と伝えし神の山をつきやぶった
犀に乗り水道をつけて通し広い世界へ犀川を通した
この犀を神に祀ったのが 今の出川町にある水引大明神である
これによって満ちていた海水が越後まで落ちて平地となりました
(以下略)
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『信府統記』(しんぷとうき)は、信濃国(長野県)松本藩主の命によって編纂され、1724年(享保9年)12月に完成した、同藩内および信濃国内の地理・歴史を記述した書籍(地誌)である。

以下は泉小太郎に関係のある箇所の私の意訳です。
ご指摘があれば修正いたします。
文章の乱雑さは編者が述べている通り
各地にある口伝と思われる内容のものをまとめたためかと
思われます。
各所にあるものをまとめているため
時代背景等もわからない状況となっています。
信府統記 第十七
旧俗伝
この国において古い時代より近年にいたる事跡を見聞すると、
郡や諸城の記録等に記載はあるものの
古代の沿革については由緒がわかっておらず確かな記載は難しい
ただ、筑摩 安曇の両郡には旧俗の伝わっている記録が少なくない
その記録は詳細なものではないが、古代を考え、今を知ることができる
きっかけとなるなら 放置したくない よって
別巻として一巻にまとめたのが次の内容である。
古代を感じていただきたい
安曇筑摩両郡旧俗伝
第一章(古代)
古い時代、まだ郡の名も決まっておらず、村里も開かれていない時
人々は山の中にのみ住んでいた。その頃はここを有明の里と言っていた
有明山という大きな山の麓であったためです。
有明山は今松川と呼ばれている
有明山の名を戸放カ嶽ともいう
それは昔 日の神が岩戸にこもったとき
天下が暗黒となったが
手力雄命が岩戸を取り投げた時 この地に岩戸が落ちた
これによって天下は明るくなったため
この山を有明山とも、戸放カ嶽とも、鳥放カ嶽ともいう
鳥放カ嶽というのは この山に鶏ににた鳥がいて時を知らせるためだとも。
一説にはこの山にかかる月はいつも明るく照っていることから有明山と
いう説もあった
人皇十二代景行天皇までは
この辺の平地は山々からながえれ落ちるすべての沢の水を湛えて湖であった
ここに犀竜がいた
またここより東の高梨というところの池に白竜王というものがいた。
犀竜と白竜王は交じり合って一人の子を産んだ
八峯瀬山にて誕生し、日光泉小太郎といった。
放光寺
のあたりで成長した
母である犀竜は自らの姿を恥じて湖に隠れた
小太郎は母を訪ねて、熊倉下田の奥 尾入沢というところで会えた
犀竜はこういった
「私は諏訪大明神 武南方富ノ命が変身したものです
子孫繁栄をさせるために現れました 小太郎、私に乗りなさい
この湖を突き破り、水を落として平地とし、人里としなさい」
小太郎は言われた通り
尾入沢で犀竜に乗った
そのため尾入沢は今では犀乗沢といわれている
三清地というところの大岩を突き破り
水内の橋の下の岩山をも破って
千曲川の川筋を越後の国の海まで乗り込ませた
これによりこの場所を乗ったりという
このため犀乗沢から千曲川に合流するところまでを犀川という
その後犀竜は白竜王を訪ねて
坂本(木)の横吹という岩穴に入る
小太郎有明の里に帰って、今の池田組十日市場の川会というところに住んで子孫繁栄した
年を経て白竜王と犀竜ともに川会にきて対面した
白竜王は
「私は日輪の精霊 すなわち大日如来の化身です」といって
犀竜とともに今の松川の一本木村西の山にある仏崎というところの岩穴に
入って隠れた
これから年月が経ったあと
小太郎は「私は八峯瀬権現の再誕である この里の繁栄を守護する」といって
仏崎の岩山に隠れた
後に 川会大明神の神社を建てたのは
この神を祀るためだという
湖の水を落として平地となったあと
水田を拓き人々が住み次第に村ができた
湖があったころは山から山へ移動するために船をつかっていた
そのため今 山家の地区に船付という地名があり、船を繋いだ石がある
また一説に
この信濃十二郡の中の筑摩安曇の両郡は満ち満ちとした海原だった
中山の崎から碧海水(うしお)に入ったため塩崎という
湖は伊奈郡へ流れる、塩尻というのもここから始まった
深瀬というのはそのなかに川筋が深い瀬がある所とか
山家というのは人々が山に住んでいたためであるため
古くからある名前である
この場所に船をつけたため船着といい
船を繋いだ石が今もある
釣りを営みとしていたが神々が憐んでいた
その中でも鉢伏(今は八峯瀬山という)の山の権現が
人として現れ 近くの丸山に住んだ
そのところに不思議な泉が湧き出でて
味が酒のようで人の飢餓を救い 疲れをとった
まさに不老不死の泉ともいえるが 人々は大変喜んだ
この権現の子供を泉の小次郎といい
生まれながらに常人とかけはなれ
岩壁を走り 水中では自在であった
この地を平地とするために海中に入り調べ
一つの山を突き壊すと水が落ちて丘となるとわかった
これは人力のおよばない神々に祈らなければならないことだった
大雨が降って満水となるとこの山を越えるほど水があふれた時
犀が1匹あらわれた
小次郎は犀に乗って、この山を乗り破った
異城のいにしえの巨霊と伝えし神の山をつきやぶった
犀に乗り水道をつけて通し広い世界へ犀川を通した
この犀を神に祀ったのが 今の出川町にある水引大明神である
これによって満ちていた海水が越後まで落ちて平地となりました
(以下略)
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